※『止揚論』291頁以下。〈English〉
■現代理論物理学によれば、物質は波動であると同時に粒子である。両者は次の関係で結びついている。すなわち―物質たる波動(物質 波)は、物質の究極の姿であるから、水波や音波のように他の物質の運動に依存する知覚された波ではなく、空間の各点で物質がエネルギーの塊たる粒子として見出される(知覚される・認識される・観測される・測定される)確率の時間的変化のグラフによる表現であり、その意味では観念的なものである。
■その確率は、空間と時間との各点における物質波の振幅の二乗に比例し、その確率で見出されうる粒子が持つ所のエネルギー は、プランクの定数と呼ばれるエネルギーの最小単位(6.63×10-27エルグ/
秒) にその波の一秒間の振動数を掛けたものに等しい。これによって、まず、物質が、認識されるされないに関わりなく、或る時或る場所に確定的にすなわち100パーセントの存在確率を以て存在するものではなく、或る場所に或る確率で認識される可能性として(したがってまた或る確率で認識されない可能性として)のみ在るものだ、ということが明らかになる。
■しかし、と人は反論するかもしれぬ。100パーセントの存在確率を以て認識しえないのは、物質のそのものの性格ではなく、物質を認識する人間の認識能力の限界によって生じるのではないか、物質そのものは確定的に存在しているのに、人間の認識能力が乏しいために、ある誤差の範囲内でしか認識しえないのではないか、と。
■この期待は、いわゆる不確定性原理によって破られる。物質波の状態を定める波動関数を解くと、物質が或る時或る場所に100 パーセントの確率で見出されるときには、物質波は無限数の異なる振動数を持つ単位波(波長と振幅とが一定した最も単純な形の波)を重ね合わせることによって生じる複合波となり、見出される物質粒子が取り得るエネルギーの値は、プランク定数に各単位波の振動数を掛けた値したがって無数の異なる値のすべてとなる。つまり、物質粒子のエネルギーの値は完全に不確定(無数の異なる値が可能)となる。
■逆に、振動数したがってエネルギーの値が100パーセント確定している完全な非複合波は、球面波となって拡がり、それが占める空間のあらゆる場所で完全に等しい振幅したがって完全に等しい確率を以て物質粒子が見出される可能性を表すものとなる。つまり、物質粒子の位置は完全に不確定となる。したがって、不確定性は物質の存在性格そのものの本質であり、認識の正確さの限界を示すものではない。
■かように物質粒子は、確定的な位置とエネルギーしたがって運動量とを同時に持ちえないから、ニュートン力学の運動概念のように同一物体の因果必然的な運動の軌跡を求めることはできない。つまり、物質粒子の取りうる多数の異なる位置と運動量の中から、或る特定の確率値が見出される、という現象は、決して、因果必然法則によりあらかじめ決まっている唯一の可能性、実は潜在性の顕在化ではありえない。
■このことはまた、物質粒子の場(素粒子場)の統計的性格からも明らかである。その統計的性格から考えて、素粒子は各場(空間の各点の物理的状態)の時間的変化の過程で瞬間的に生滅するものであって、或る瞬間或る場に存在する素粒子が、次の瞬間その場を去って隣接する他の場に移動する、と解することはできないものである。つまり、次の瞬間隣接する場に存在する同種の素粒子は、前の瞬間前の場に存在していた素粒子と同一のその素粒子ではありえないのである。同一の素粒子だと解した場合素粒子場が従うはずの統計法則は実際の観測・測定に合致するように組み立てられた素粒子場の統計法則と異なったものになってしまうからである。
■かようにして、物質たる認識(観測・測定)可能性の現実化は、あらかじめ定まっている唯一の確定した潜在的運動経路の顕在化ではないことが判明したが、しかしそれはことによると、先述せる碁の場合と同様、あらかじめ定まっている確率論的必然法則に従って展開する所の、潜在的な場の物理量の時間的変化の無限に枝岐れしてゆく複数の道筋の、単に偶然的な顕在化に過ぎないのであって、自己超出論から導き出されるような自由意思の内的必然に基づく目的的選択による可能性の現実化およびそれに伴うそれまで全く存在しなかった新たな可能性の創造ではないのではなかろうか。
■素粒子場の状態変化が確率論的必然法則たる統計法則に従うという事実は、一見この疑いを裏づけるかに思われる。だが実はそうではない。場の統計法則たる波動関数は、単に各素粒子場において各種物理量(素粒子の存否、個数、エネルギーなど)が種々の値で見出される確率論的可能性の時間的変化を支配しているに過ぎないから、その可能性の現実化つまりそれぞれ一定の確率で見出されうる種々の物理量の中からどれかひとつを現実に見出す(観測・測定する)ことが行われない間は、場の状態は波動関数にしたがって確率論的・統計法則的必然性を以て変化して行くが、ひとたび右の現実化つまり観測が行われ、その結果波動関数によって規定された種々の確率論的可能量の中からどれか一つが確定量として現実化され測定されると、その瞬間にそれまで物質変化を支配していた波動関数は完全に失効し、間髪を容れずそれに代わって、それまで全く存在しなかった、つまりその時まで物質の可能的状態を支配していなかった新たな波動関数が登場し、以後物質の可能的状態を支配する。
■すなわち、物質たる諸可能性の中から、観測・測定によりそのどれかひとつを現実化し確定量として認識する人間の営みは、同時にその諸可能性としての物質の現実化以前の状態をご破算にし、それに代わって今まで存在しなかった新たな諸可能性としての新たな物質状況を措定するという、創造的な営みつまり自己超出なのである。
■ルールが決められた瞬間に、潜在的には、可能なあらゆる打碁の手順が間髪を入れず定まってしまい、実際の対局は、それらの潜在的な諸手順の中からどれかひとつを選び出して顕在化する営み、すなわち既に在ったがいまだ知られていなかったものを知る営みにすぎず、したがってそれまで存在していた何ものをも変えることがなく、それまで存在していなかった何ものをも創造することがないという、碁を打つことそれ自体とはまったく異なるのである。
■そして、本論でこれまで縷々説明してきた所の、「世界すなわち物質宇宙を乗り越えることによって新たな世界を措定し、かつ措定する都度その世界を再び乗り超えることにより更に新たな世界を措定する」という自己超出と世界すなわち物質宇宙との関わりは、現代理論物理学が明らかにしたこのような物質と観測・測定との関係と、完全に符合する。
■さてかように、物質の根源的な姿を現す物質波が、認識諸可能性の時間的変化という一種観念的なものの、それ自身観念的な存在たるグラフによる表現だという事実、およびその認識諸可能性の中からの特定の可能性の現実化たる観測・測定という意識的・自由意思的認識つまり心理作用が、何らの物質的な相互作用をも媒介とすることなく、したがって無時間的瞬間的に、物質波の状態したがって物質を支配する統計的法則たる波動関数の形を変えてしまうという事実は、物質の存在と物質の認識とを、物質の状態と意識作用とを、要するに物と心とを峻別し、後者を離れて独立に前者が存在することを当然の前提として物質像を作ってきた所の世間および従来の物理学の常識と真向から矛盾したので、外ならぬ物質波概念および波動力学の創始者であったアインシュタイン、ドウ・ブロイ、シュレーディンガーその人たちによってさえ、奇怪なこととされ、疑われたのである。物質波は物質空間で直接干渉し合うから確かに物質であって、観念的な存在とは考えがたい。これが第一の疑問であって、シュレーディンガーの名高い猫のパラドックスはその疑問の表明であった。
■しかし、「物質は唯だ一つの確定的な状態に在る」と決めこむから物質波が観念的存在に見えるだけの話で、そういう常識への囚われから逃れて事実が示すままに「可能性そのものが物質だ(なぜなら可能性の時間的変化である物質波が直接物質界で相互作用[干渉]をするのだから)」と解してしまえば、物質波はまがう方なき現実的な存在となり何ら観念的なものではなくなる。
■それ故、彼らが特に奇怪視しその真理性を疑ったのは右の事よりも、観測・測定による物質波の変化は瞬間的・無時間的に起こる、という事実の方であった。常識的見方からは、この変化は、物質波とそれを観測・測定する装置との物質界における相互作用によって惹き起こされることが、予想される。だがそうだとすれば、その変化は瞬間的・無時間的には起こり得ない。なぜなら、特殊相対性理論の教える通り、物質と物質との物質界における相互作用は、光速度以上の速さで伝播することはできず、したがって必ず或る時間をかけて非瞬間的につまり何ほどかゆっくりと行われるはずだから。
■しかし常識論にとって甚だ困ったことには、当のシュレーディンガーが電子波に対して行った数学的定式化の結果たる波動関数ψの基本性質は、測定による波動関数自身の変化が、常識論の期待に反して正に瞬間的無時間的に起こることを要求する。
■故に、この変化は、物質波と測定装置との相互作用によって生じるものではない。(不確定性原理の提唱者ハイゼンベルクが初期に試みた不確定性を説明するための思考実験では、電子に光を当てて光学顕微鏡でその位置を測定・観測するといった類のモデルが使われたが、あれは嘘である。常識論者にも「なるほど」と思わせるための方便に過ぎないこのような擬似説明は、波動・量子力学が物質の存在性格の把握に対して強いる革命的変革を、ごまかしあいまいにしはぐらかす役にしか立たなかった。)
■しかし同時に、観測・測定によって生じることは確かである。それならば、物質波を変化させる観測・測定は、測定装置の物質波に対する作用ではなくて、その測定装置を使って「測定する」意識の働き、心理作用、認識作用そのものであると解さざるを得ない。この事情を、その最初の指摘者だったフォン・ノイマンの解説者ロンドンとバウエルとは次のように説明している。「従って、測定において、系の新しいΨの出現を作り出すのは測定装置と対象との間の何か神秘的な相互作用ではない。古い関数Ψから離れて、それ以後は対象に新しい波動関数を付与し、その自覚的観測によって一つの新しい客観性をつくり出すのは、ひとえに一つの自己の意識なのである(高林、荒牧訳、アンドラード・エ・シルヴァ、ロシャック「量子」182~3頁)。」
■これを読んでシュレーディンガーは皮肉った、「ψ(プサイ)波の理論は心理学(プサイコロジー)になった」と。また、ドゥ・ブロイは反撥の感情をこう述べた、「波動関数から区別されるこの『自己』は対象と測定装置との間に想定されたどんな相互作用よりも、私にはより一層神秘的に見える。」と(以上、同前著同前頁)。
■しかしたとえ主観的にどう見えようと、物質波の変化が測定と同時に起こるというのが客観的事実なら、ノイマンのように解釈する以外に方法はない。そこで、ドゥ・ブロイは、物質波の測定により物質粒子が確定的存在として認識される現象は、測定されぬ物質波が、その場所において際立って大きい振幅を与える別の物質波(これが素粒子の実体にほかならない)を常に嚮導しており、測定装置がこの後者と相互作用する現象である、と解することによって、物質波の瞬間的無時間的収縮を、意識作用としてではなく、あくまで物質波(素粒子)と測定装置との相互作用として説明しうる理論の建設に努力した。しかしその努力は、ボームらによる同種の努力と共に、他のいくつかの研究に有益な刺激を与えはしたが、今日に至るまでそれ自体としては成功していない(同前著247頁の高林解説参照)。そのこと自身が、ノイマンの解釈の正しさを証明していると言えよう。そしてノイマンの解釈は、叙上のような自己超出論と結びつけることによってのみ、ドゥ・ブロイのいわゆる神秘論だとの批判を克服しうるのである。