※『存在と文化第一巻』「総序」41ページ以下。〈English〉
■さて、かように、過去(体験)が無意識であり現在が意識であるとすると、その無意識の深淵から召喚された過去体験と、現在意識において直接対応づけられ(判断され)、それに基づいてその一つを選択される所の、その意味で過去・現在と共に切れ目なき一つながりの内在時間全体を形作る所の、未来の諸可能性は、一体何に当たるのであろうか。現代科学が知っている存在の種類は意識と無意識と以外には物質しかないから、それはつまり物質ではないだろうか。ここまでは極く自然の推理である。
■しかし、この問いを肯定しようとして、多くの人はハタと立ち止まるであろう。彼らは面食らう、「何だって? 物質は現在確定的にあるものではなくて、未来に不確定な状態で単に在りうるものに過ぎないのだって? そんな馬鹿なことがあるか! 現に原稿用紙という物質・机という物質は現在そこに只一つの確定された状態で存在するではないか!」
■だが、よく考えてごらんなさい。先程から述べてきたように、今眼の前にある原稿用紙や机は確かに現在意識において知覚されているという意味においてそこに存在するが、その現在意識において無意識の深渕から呼び醒まされ想起された或る過去体験と或る未来のその原稿用紙や机への対処の仕方の諸可能性とが対応づけられそれに基づいてその諸可能性からの選択がなされること、そのこと自体が、その原稿用紙や机の知覚即ち原稿用紙や机が今そこに存在することにほかならないのだ。
■つまり、今そこに在る原稿用紙や机とは、物質ではない無意識や意識を本質的な要素として存在しているもので、純粋の物質としての原稿用紙や机それ自体ではない。純粋の物質としての原稿用紙や机自体の存在は、それ(今そこに在る原稿用紙や机)のもう一つの構成要素として、無意識や意識の存在がそこに指定されている内在時的場所たる、過去や現在以外の内在時間的場所に、求めなければならない。さすれば、その場所はやはり未来以外にはない。
■そしてまさしく、現代物理学の物質観は、物質が未来の諸可能性であるという、従来の常識的物質観からすればまさに青天の霹靂ともいうべきこの真理の、直接の且つ極めて明快な証明となっている。