●天照大神(あまてらすおおかみ)が太陽神であるというのは通説的見解だが、それならばなぜ、現に存在している太陽それ自体を直接おまつりしないのだろうか。伊勢神宮では、全体で年間千数百もの祭祀が行われているが、そのうち、太陽を直接おまつりする祭祀は存在しない。また、自然崇拝的特色を色濃く残す神道では、山、滝、巨木、岩などがご神体とされてきた。しかし、太陽それ自体がご神体であるという神社を聞いたことがない。太陽は、私たちの生活に最も大きな影響を与える存在である。なぜ、太陽は、直接、「神」とはされていないのだろうか。
●まず、伊勢神宮が太陽そのものではなく、天照大神をおまつりする理由は、比較的分かりやすいだろう。天照大神は太陽神ではあるが、単に太陽を人格化したということではなく、「皇祖神」である点にその意義がある。皇室の祖先が高天原にいる天照大神であり、その孫のニニギノミコトが天下り、今日の皇室へとつながっていった。このストーリーこそが記紀神話の要点である。太陽自体をまつると、記紀に描かれた天皇家につながるストーリー性がなくなり、天照大神と皇室との関係が希薄になってしまう。天皇制の正当性を主張するという観点から見れば、太陽をまつることに意義があるのではなく、皇祖神としての天照大神をおまつりすることにこそ意義があるのである。
●しかし、わが国の神社において、伊勢神宮系以外の神社でも、直接に太陽をおまつりする神社は少ないと思われる。神道では、山や滝や岩や大木を直接にご神体としておまつりするのに、太陽はなぜ直接におまつりされないのだろうか。
●ひとつの見方として、それまで各地に散在していた太陽信仰は、大和王権によって、天照大神に一元化されていったという見解がある。船橋大神宮で知られる意富比神社(おおひじんじゃ)の御祭神は、現在は天照大神である。しかし、神社のHPによると、意富比神は元来「大日神」すなわち太陽神であったとする説が有力であるとされている。古代には、地方の太陽神をおまつりしていたものが、その後、天照大神に入れ替わったとする解釈である。
●神社が創建される以前の古神道の時代は自然崇拝の時代だから、太陽も他の自然物と同じように崇拝の対象であった可能性は高い。たとえば、縄文時代後期(約4,000年前)の遺跡である大湯環状列石は、何らかの形で太陽信仰につながるものであると思われる。また、縄文時代前期から中期の遺跡である三内丸山遺跡において、構造物の空間配置は、おおむね夏至の日出と冬至の日没の方位に合わせて建てられているという。
●しかし、現在、神社において、太陽を直接おまつりしていないのはなぜだろうか。私は、神道において、天照大神へ一元化されていったという事情以外に、太陽を直接おまつりしない理由があると考える。以下、この点に関する自説を述べたい。
●私は、神道を、「一定の神聖な場所において、可畏きものを、畏敬の念と畏怖の念からおまつりすること」と定義した。「まつること」こそが神道の本質である。「まつる」行為は、祭られる側(神)とまつる側(人々)との間に成立するものである。この場合、祭られる側(神)は、貴いもの、畏きものであるが、同時に、まつられる客体である。まつる側(人々)がまつる行為の主体である。「まつり」は、まつる側(人々)の主体的、能動的な行為である。
●また、私は、「神道の社会的機能」の中で、神道は、水稲稲作が大規模化する中で、共同体を維持するという社会的要請から生まれたものではないかと論じた。神道の「まつり」は、心情的な面から、共同体の結束を強め、共同体構成員同士の絆を作っていくものである。
●以上の観点から見ると、神道の「神」は、共同体を結束させるシンボルとなりうるものがふさわしいと言えよう。共同体とは、構成員、その住居、田畑、森林などの総体だから、その土地を象徴するものが「神」として崇められたのである。この点で、その土地にある特異な岩、巨木、泉、その土地から望める山などは神道の「神」としてふさわしいものである。もちろん、神社が建立されるようになると、その土地の神社に祀られた人格神も「神」にふさわしいであろう。
●一方、太陽はどうだろうか。太陽は、もちろん自らの共同体から眺めることができる。しかし、別の共同体からも同じように眺めることができる。ずっと離れた地域からも眺めることができる。太陽はあまりに普遍的な存在である。
●おそらく、あまりにも普遍的で絶対的な太陽は、それぞれの共同体の「まつり」のシンボルとしてはふさわしくなかったのではないだろうか。神道の「神」であるためには、それぞれの土地に根差し、共同体の結束を強める対象である必要があったのではないだろうか。
☞神道とは何か
なぜ太陽自体を祭らないのか
