■ここで、常設の神殿としての神社の起源について、ひとつの仮説を提示したい。自説は、各地の豪族たちの祖先神を私的に祀っていた「神殿」が、大和王権によって、「神社化」されていったというものである。
■弥生時代において、集落の規模が一定程度大きくなると、いわゆる拠点集落が形成され、そこには「神殿」が設けられるようになった。
弥生期最大の拠点集落跡である吉野ケ里遺跡には、三層構造の主祭殿があり、その二階は共同体としての重要な会議などを行う場であり、最上階は共同体の神をおまつりする祭祀場であったと考えられている。
また、弥生時代屈指の環濠集落である大阪府和泉市の池上曽根遺跡(いけがみそねいせき)には、東西19m、南北7mの高床式の大型建造物があったことが確認されている。その階上は神をまつる神殿であり、階下は人がたくさん集まるスペースと考えられている。
さらに、弥生時代末期から古墳時代前期の遺跡である纒向遺跡(まきむくいせき)では、3世紀当時の最大級の建物が見つかっており、居館と推定されている。そして、そのすぐ南側に、伊勢神宮の御正殿と似たつくりの神殿らしき建造物があったことが確認されている。纒向遺跡は、初期大和王権の王宮であったとする説が有力である。
■弥生時代の「神殿」にどんな神がまつられていたのかは分からない。しかし、この時代は、それぞれの地方において、多くの土地や財産や私兵を持ち一定の地域的支配権を持つ一族いわゆる豪族が登場した時代でもある。そうすると、
上に見た集落内の神殿は、支配一族が明確になるにつれて、豪族たちの「祖先神」をおまつりするという色合いを強めていったと思われる。なぜなら、彼らにとって、自らの支配の正当性を主張し結束を強めるために、自らが特別な一族であることを強調する必要があったからである。豪族たちが日本の各地に勢力を拡大していく中で、彼らの拠点には、同様の「神殿」がつくられていった可能性が高い。
■さて、以上の「神殿」はあくまで皇族・氏族・豪族たちが私的に祖先神をまつる施設であって、「神社」ではない。「神殿」と「神社」の違いは何だろうか。「神殿」とは、皇族・氏族・豪族などが自分たちの祖先神をまつる私的な神まつりの施設である。一方、「神社」は被支配者を念頭に置き、その土地が皇族・氏族・豪族などの支配に入ったことをその地域の住民たちに知らしめ、住民たちに、皇祖神、祖先神などを崇敬することを求めるための施設である。すなわち、「神殿」の「神社化」は、皇族・氏族・豪族たちが、その地域の住民たちに自分たちの祖先神を崇拝させ、その地域の支配を安定させるという明確な政治的意図の下に進められていった事業であると考えられる。
■各地の豪族・氏族が同じ考えに基づいて自然に「神社」を造営していったと考えるよりも、「神社」は、大和王権の主導の下で、全国各地に創建されるようになったと考えるのが自然であろう。この点は、その後、大和王権が、古代律令制において、神社の官社化や序列化などを積極的に進め、国家統治の手段のひとつとして神社(官社制)を積極的に活用していることからも裏付けられる。
■『日本書紀』では、神武天皇の東征後、数代の天皇は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の神鏡を王宮(皇居)の中にまつっていたこと、そして、第十代崇神(すじん)天皇の御代に、はじめて天照大御神を大和の笠縫邑(かさぬいむら)に祀り、王宮(皇居)と神宮とを分離させたことが記されている。
■また、『日本書紀』では、崇神天皇が、八十万の神々をまつるために、天社(あまつやしろ)、国社(くにつやしろ)、神地(かむところ)、神戸(かんべ)を決めたと記されている。『古事記』では、同じ崇神天皇の段において、「天神地祇(あまつかみくにつかみ)の社を定め奉る」と記されている。一般に、天神(天津神)は皇族や有力な氏族が信仰していた神々、地祇(国津神)とは大和王朝によって平定された豪族たちが信仰していた神々と考えられている。「天神地祇の社を定め奉る」とは、まさに、「神社」の創建を意味しているものと思われる。
■以上のように、神をまつる常設の神殿としての神社の創建は、古神道における神まつりが徐々に変化していったものではなく、大和王権によって、極めて政治的な目的のために進められた国家的プロジェクトであったと考えるのが妥当である。