■個人としての私とは、ワンネス(全体意識)である自己が、世界を認識する視座を身体に固定された状態(一定の制限をかけられた状態)です。
■なぜ、私たちは身体に固定されているのでしょうか。それは、私たちに「自由」を与え、「創造」を行わせるためです。
■ワンネス(全体意識)としての私が、これまで認識したことのない特定の視座から自分自身を見直すとともに、自らが作り出した世界の中で、個人としての私たちを自由に活動させることによって、この世界を発展させようとしているのです。
■個人としての私の特徴は以下のとおりです。
(1)個人としての私は、世界を認識する視座が身体に固定されています。すなわち、個人としての私は、目、耳、鼻、舌、皮膚などの感覚器官からのみこの世界を認識しています。これは、視座を固定することによって逆に世界を固定し、これによって、個人としての私に「自由」を与え、「創造」を行わせるための仕組みと考えられます。これに対し、全体意識としての私の認識は、感覚器官によらない認識であり、私が意識を向けた場所に自由におもむくことができたり、また、意識が世界全体に拡大したりします。
(2)個人としての私には、時間の限定がかけられています。時間が存在するのは、身体が存在することの必然的な帰結です。身体があることによって、私たちはこれまで経験した過去と、今経験している現在と、これから経験する未来という直線的な時間の意識を獲得しました。一方、全体意識としての私には時間の垣根がないので、過去にも未来にも、自由に行くことができます。
(3)個人としての私は、自由に動かせる範囲が自己の身体に限定されています。これはむしろ、自由意思に基づいて身体を自在に動かせる点を強調すべきでしょう。全体意識としての私は、世界を自在に改変することが可能と思われますが、全体意識が、自ら作り出した世界を個人としての私たちの人生に影響を与える時間的スパンの中で改変することはないものと思われます。
(4)個人としての私は、原則として、他の者の身体に入り込むことはできません。また、他の者の体験を直接、自分の記憶として留めることもありません。これは、創造の視点を定めるための限定と思われます。全体意識としての私は、他の者の感情を内側から理解することができ、その過去体験を直接参照することができます。
(5)個人としての私には、知恵(思想・感情)の受容に抑制がかけられています。一方、全体意識としての私は、思想や感情を溢れんばかりに有しています。臨死体験者は、疑問に直ちに答えられ、絶対的な愛といわれる感情に包まれると言います。しかし、個人としての私には、このようなことはありません。これは、個人としての私を現在直面している状況に集中させ、そこで自由に活動させるための仕組みと考えられます。
☛私たちが理解すべきただひとつのこと