まつりの原点—アメノウズメ―

■神道を様々な方向から検討していくと、いつも、知らず知らずのうちにひとつの場面へと行きついてしまう。それは、古事記の天の岩屋戸の場面である。天の岩屋戸に引きこもってしまったアマテラス(天照大神)を高天原に呼びもどすために、八百万(やおよろず)の神々が天の安の河原(あめのやすのかわら)に集まる。まず、オモイカネ(思金神)が対策を練り、常世の長鳴鳥(ながなきどり)を集めて鳴かせ、イシコリドメ(伊斯許理度売命)に八咫鏡(やたのかがみ)を作らせ、タマノヤ(玉祖命)に八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を作らせ、アメノコヤネ(天児屋命)が岩戸の前で祝詞を唱える。そして、そのハイライトを古事記は次のように記している。

天宇受売命(あめのうずめのみこと)、天の香山(あまのかぐやま)の日影(ひかげ)を手次(たすき)に懸けて、天の真折(まさき)を蔓(かずら)として、天の香山の小竹葉(をさば)を手草(たぐさ)に結ひて、天の岩屋戸に槽伏(うけふ)せて踏み轟(とどろ)こし、神懸(かみがか)りして、胸乳(むなち)をかきいで裳緒(もひも)を陰(ほと)に押し垂れき。ここに高天の原動(とよ)みて、八百萬の神共に咲(わら)ひき。(『古事記』岩波文庫より)。

■何という躍動感に溢れた表現だろうか。また、アメノウズメの踊りは、現代ではストリップショーであるが、そんな倫理的問題にまったく囚われず、明るくこの場面を描ききっている。ここに芸能の原点を見る見方も有力である。

■同時に、アメノウズメは、目の前に立ちはだかる難事に対し軽々と立ち向かい、未来の運命を切り開らこうとしている。アメノウズメは、天孫降臨の段にも登場し、アマテラスから「相対する神と面とむかってもにらみ勝ちする神」として指名を受け、天孫一行の前に立ちふさがった異様な容貌のサルタヒコ(猿田毘古)に対峙した(その後、サルタヒコとアメノウズメは夫婦になる)。ここに天孫降臨の準備は整うのである。

■天の岩屋戸の場面において、アマテラスは主役ではない。主役は、オモイガネであり、イシコリドメであり、タマノヤであり、アメノコヤネであり、アメノウズメであり、アメノタジカラ(天手力雄命)であり、フトダマ(太玉命)であり、そしてその場に集まった八百万の神々である。彼らは、自分の個性に応じて、アマテラスを呼び戻すために、知恵を出しあって自由に働き、自由に遊ぶ。

■ここに「まつり」の原点がある。躍動感にあふれ、少々卑猥なアメノウズメの踊りは、本来のまつりのあり様を生き生きと伝えている。

☛神道とは何か