究極の畏き存在

●宇宙飛行士のジーン・サーナンは次のように述べている。「宇宙から地球を見るとき、そのあまりの美しさにうたれる。こんな美しいものが、偶然の産物として生まれるはずがない。ある日ある時、偶然ぶつかった素粒子と素粒子が結合して、偶然こういうものができたなどということは、絶対に信じられない。地球はそれほど美しい。何らの目的なしに、何らの意志なしに、偶然のみによってこれほど美しいものが形成されるということはあり得ない。そんなことは論理的にありえないということが、宇宙から地球を見たときに確信となる。」

*立花隆『宇宙からの帰還[新版]』(中公文庫、1985年)282頁。

●神道においては、すぐれて可畏(かしこ)きものが「神」である。そうすると、究極の可畏き存在とは地球ではなかろうか。

●神道では八百万の神々をおまつりする。山、川、沼、池、島、巨石、巨木、火、雨、風、雷、オオカミ、鹿、鏡、剣などなど。神道で森羅万象をおまつりするのは、結局のところ、そのおおもとである地球をおまつりすることではないだろうか。

●私は、神道の起源について、水田稲作が大規模化し、大きな集落が形成される中で、「人の領域(里)」と「神の領域(自然)」とが意識されたときに始まったと考えている。神社は、神の領域に向けて建てられている。人々は、里の暮らしを維持するために、神の領域(自然)を侵してはならないと考えたのである。

●今日地球は、開発による森林伐採、地球温暖化、異常気象、環境汚染などにより生態系の危機にさらされている。神の領域を侵すとは、現代的に言えば、地球が育んできた生物多様性とそれを支える地球生態系を破壊する行為を行うことである。

●たびたび述べているように、「まつり」は、人々の意識に働きかけて、共同体を維持するという社会的役割を担う。まつりを行うことによって、人々は、共同体の危機を乗り越え、また、共同体構成員の活性化を図る。

●私たちは今、世界的規模における地球環境の危機に直面している。こうした時代であるからこそ、地球をおまつりすることによって、人類全体の結束を強め、地球生態系の危機を乗り越える必要があるのではないだろうか。現在ほど、神道的思想が求められている時代はないのではなかろうか。

☞神道とは何か