■ところで、地球誕生以来の地球の歴史を見れば分かるとおり、全体意識の目的は、生物を多様に進化させ、生態系を全体として一層緊密に構築していくことにあります。全体意識の一部である自分自身についてみれば、私たちは、魂を成長させ、自分の人格を発展させることを人生の目的としています。
■しかし、ワンネスの世界(全体意識の世界)の学びには、一定の限界があるのも事実です。それは、ワンネスの世界(全体意識の世界)はこれまでの知恵の総体ですから、あまりにも調和のとれた、あまりにも安定した世界なのです。新たな学び、新たな創造というのは、いままで経験したことのない困難な事態に直面し、そこで試行錯誤を繰り返す中で見出されていくものです。
■そこで、全体意識は、ワンネスの世界(全体意識の世界)の中に、限定された視点からしかこの世界を認識することができない者(限定知者)を作り出して、その者に自由に創造をさせることにしたのです。その限定知者として、全体意識によって生み出されたのが、私たち人類をはじめとする生物です。
☞なぜ、ワンネス(全体意識)は生物を作り出したのか
■私たちは、世界を認識する視座を身体に固定されています。言い換えれば、一定の制限をかけられた状態にあります。「この世」とは、一定の制限をかけられた私たちから見た世界のことです。「この世」は、「あの世(全体意識の世界)」と別の世界ということではありません。
■それでは、個人(生物)としての私たちは、どのような制限がかけられているのでしょうか。
(1)この世において、個人としての私たちは、世界を認識する視座が身体に固定されています。すなわち、私たちは、目、耳、鼻、舌、皮膚などの感覚器官からのみこの世界を認識しています。これは、視座を固定することによって逆に世界を固定し、これによって、個人としての私たちに「自由」を与え、「創造」を行わせるための仕組みと考えられます。これに対し、ワンネスの世界(全体意識の世界)における私たちの認識は、感覚器官によらない認識であり、私たちが意識を向けた場所に自由におもむくことができたり、また、意識が世界全体に拡大したりします。
(2)この世において、私たちには時間の限定がかけられており、私たちはやがて死すべき存在(ワンネスの世界に戻っていく存在)です。時間が存在するのは、身体が存在することの必然的な帰結です。身体があることによって、私たちはこれまで経験した過去と、今経験している現在と、これから経験する未来という直線的な時間の意識を獲得します。一方、ワンネスの世界(全体意識の世界)では、私たちには時間の垣根がないので、過去にも未来にも、自由におもむくことができます。また、「死」という概念もありません。
(3)この世において、私たちは、自由に動かせる範囲が自己の身体に限定されています。これは、上で述べたとおり、自由に動かせる範囲を自己の身体に限定することによって、逆に世界を固定し、その世界の中で、個人としての私たちを自由に行動できるようにしているのです。ワンネスの世界(全体意識の世界)では、私たちには身体がありませんので、時空を超えて自由に移動したり、世界を自在に改変することが可能です。
(4)この世において、私たちの魂は、原則として、他の者の身体に入り込むことはできません。また、他の者の体験を直接、自分の記憶として留めることもありません。これは、創造の視点を定めるための限定と考えられます。ワンネスの世界(全体意識の世界)では、私たちは、他の者の感情を内側から理解することができ、その過去体験を直接参照することもできます。
(5)この世に来る際、私たちは、ワンネスの世界(全体意識の世界)の記憶を一切消して生まれてきます。一方、全体意識としての私たちは、知恵(思想や感情)を溢れんばかりに有しています。臨死体験者は、疑問に直ちに答えられ、絶対的な愛といわれる感情に包まれると言います。しかし、この世において、私たちには、そのようなことはありません。これは、この世において、私たちを、現在直面している状況に集中させ、思いもよらない新たな創造を行わせるための仕組みと考えられます。
■以上のように、今を生きる私たちは、一定の限定をかけられることによって、今まで経験したことのない新たな状況に直面し、そこで、試行錯誤をしながら、新たな学び、新たな創造をしていくべき存在なのです。