神道の感覚

■「この大気そのものの中に何かが在る。—うっすらと霞む山並みや妖しく青い湖面に降りそそぐ明るく澄んだ光の中に、何か神々しいものが感じられる。—これが神道の感覚というものだろう。」ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、はじめて出雲大社に参拝した際の気持ちを日記にこう記している(『杵築(きづき)』)。

■神道は感性、感覚の宗教である。この点は、仏教、キリスト教、イスラム教などのいわゆる普遍宗教と異なる部分であろう。
 それでは感性とは何だろうか。事物に触れたときに人を引き付けてやまないある感覚としか言えない。感覚は私的な事がらであり、心が揺さぶられる者もいれば揺さぶられない者もいる。

■伊勢神宮内宮への参道を歩いて、「かたじけなさに涙こぼるる」気持ちになるかどうかは人それぞれであろう。これは、気分なので、参拝客でごった返していたとか、霧がかかって幻想的だったなどという要素も加わる。

■ともあれ、心が揺さぶられる者が神道の感覚が分かる者のであり、揺さぶられない者が神道から遠い者である。ある教えを聞いて納得し、理解するかどうかではない。感じるか、感じないかなのである。

☛神道とは何か