■鹽竈神社(しおがまじんじゃ)は、JR仙石線の本塩釜駅から西に1㎞歩いた場所にあります。東日本大震災の際、津波は神社の手前まで達したようですが、現在では、神社までの大通りは電柱が地中化され、すっかり整備されていました。
■石鳥居から見上げる表参道の眺めは、鹽竈神社を代表する景観です(右写真)。表参道の石段は202段あり、 「奥の細道」で芭蕉は、「石の階九仞(きざはしきゅうじん)に重り」(石の階段が急勾配で何段も続いている)と表現しています。芭蕉と曾良は、元禄2年(1689年)6月24日の早朝、鹽竈神社に参拝した後、午後に船で松島に向かいました。
■鹽竈神社は古くから陸奥国一之宮として崇敬を集めてきました。しかし、『延喜式』神名帳(927年)には記載がなく、神位勲等の奉授も受けていません。
■一方で、平安時代初期の820年に編纂された『弘仁式』主税帳逸文には、「鹽竈神を祭る料壱萬束」とあり、朝廷から多額の祭祀料を受けていたことが分かります。当時、全国で祭祀料をもらっていたのは、他に伊豆国三島社(二千束)、出羽国月山大物忌社(二千束)、淡路国大和大国魂社(八百束)の三社だけです。
■当神社の西南5km余の場所に、奈良時代、国府と鎮守府を兼ねていた多賀城がありました。上の相反する朝廷の対応には、多賀城の存在が関係していたことが考えられます。
■境内は陸奥一宮の風格があります。一般の神社は門の正面に主祭神を祀っていますが、鹽竈神社の場合、唐門を入った正面に鹿島・香取の神を祀る右宮本殿、左宮本殿が並んでいます。右写真はそれを拝する左右宮拝殿です。
■一方、主祭神の塩土老翁神(しおつちのおじがみ)を祀る別宮は正門から向かって右側にあります。
■これは、現在の社殿が、伊達家によって宝永元年(1704年)に竣工されたことによるものと考えられています。すなわち、伊達家が、鹽竈神社の社殿を新造する際、伊達家の守護神である鹿島・香取の神を仙台城の方角に向けて建てたのではないかと推測されるのです。一方、主祭神の塩土老翁神の宮は、海難を背負っていただくように、海に背を向けて建てられたと考えられています。
■鹽竈神社の東隣にある志波彦神社(しばひこじんじゃ)は、元来、この場所にあったものではなく、明治7年(1874年)に、ここに引っ越してきました。元は宮城郡岩切(仙台市宮城野区)にありました。延喜式では名神大社に列せられていた由緒正しき神社です。
■御神苑からは、塩釜湾(または千賀の浦)を眺めることができます (下写真)。明治天皇が、「またとない景色」とたたえた眺望です。最近では、手前のマンションの建設によって、景観論争が起きました。