■私たちが世界を認識することと世界が存在することとは同じことである。このように考えた場合、Aさんの世界とBさんの世界とはどのような関係にあるのでしょうか。世界というのは人の数だけ存在するのでしょうか。
■逆に、私たちは認識主体ですから、Aさんの「私」もBさんの「私」もこの物質世界に存在するものではありません。また、Aさんの「私」とBさんの「私」とを別物と考えてしまうと、私は、ひとつ、ふたつと数えられることになってしまいます。私は、この世界に存在しないのであり、認識主体たる私自身はひとつふたつとは数えられないのですから、Aさんの私もBさんの私も同じもの(同じ認識主体)ではないかという推論が成り立ちます。すべてを統合し、世界を創造する「私」は、結局のところ、ひとつの存在、数えられない全体と考えるのが妥当であると思われるのです。
■ところで、どうして私たちは、この世界が客観的に存在すると考えるのでしょうか。これは、私たちが五官の作用によって(身体を通じて)世界を認識するからです。あたかもビデオカメラで世界を映し出すように、私たちは目によって外の世界を眺めているように感じています。身体が、認識主体たる「私」と認識客体たる「世界」とを隔てているのです。
■そうしますと、身体から離れれば、私たちはこの誤解から解放されることになります。しかし、私たちが身体から離れるということはすなわち死を意味しますので、これは実現不可能とも思われます。ところが、これを体験した人たちがいるのです。臨死体験をした人たちです。
■臨死体験者が語る世界とはどのような世界でしょうか。その世界は以下のような特徴をもっています。
(1) 私には身体は存在せず、意識だけがある。
(2) 私の意識は身体にとらわれているときと比べて極めて明 晰 であり、 かつ、強い現実感(リアル感)を伴っている。
(3) 私は、限りない自由と解放感に満たされている。
(4) 無条件の愛を感じることができる。私は、大きな愛に包まれ、至福感に満たされている。
(5) 私の意識は大きく拡大したり、収縮したりする。拡大すると、宇宙全体を包み込むほどに感じられる。
(6) 私の認識において、見ることと聞くことなどの明確な区別は存在しない。
(7) 直線的な時間は存在しない。すべての瞬間に過去、現在、未来を同時に認識することができる。
(8) 私は、時空を自由に瞬間移動(テレポーテーション)することができる。私はいかなる時代であっても自由に行くことができ、いかなる場所へも瞬時におもむくことができる。
(9) 私は、光の世界で出会った人たちと、テレパシーによる(言語によらない)会話をすることができる。
(10) 私は他の人たちの意識の中に入り込み、内側からその人を理解することができる。これはすべての生物に対しても同様である。言い換えれば、私たちは、すべての生命を分かち合っている。
(11) 私は、全体意識の中にいても、霊的エネルギーによってこちらの世界とコミュニケーションをとることができる。
■以上が、臨死体験をした人たちが語るワンネスの世界(全体意識の世界)の特徴です。
■臨死体験者たちは「あの世」の世界を語っているのでしょうか。いや、それは違います。彼らが見たものは、まさに、認識することと存在することとが同じ世界です。また、そこでは、Aさんの世界もBさんの世界も体験することができます。これはまさに、身体のくびきから解放されたことによって体験した私たち自身の本来の姿です。
■つまり、私たちは、元来、ワンネス(全体意識)なのです。臨死体験者たちはその世界を語っているのです。
■個人としての私たちは身体によって一定の制限をかけられていますが、今でも、私たちはワンネス(全体意識)なのです。
☛私たちが理解すべきただひとつのこと