香取神宮

●ゴールデンウィーク中日の香取神宮は天候にも恵まれ、多くの参拝者で賑わっていました。

●香取神宮のある丘は亀甲山(かめがせやま)と呼ばれ、その境内には、拝殿右の樹齢千年を超えるご神木のほか、杉の巨木が林立し、神域の雰囲気を醸し出しています。

●延長5年(927年)にまとめられた延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)において、「神宮」を名乗る神社は、伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮の3社だけです。

●香取神宮のご祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)です。神名の「フツ」は、刀剣で物が断ち切られる擬音に由来し、刀剣の威力を神格化した神とする説が有力です。「ドキドキ」「パクパク」「ゴクゴク」など現在の日本語には擬音が多いのですが、神様の名前にも擬音が用いられているとすると、日本人の擬音好きは最近始まったことではないようです。

●記紀神話の中でも、出雲の国における国譲り神話は、日本列島におけるヤマト王権の支配を確立する重要なエピソードですが、古事記と日本書記では、経津主大神の扱いがまるで異なっています。

●古事記では、葦原中国に遣わされたのは、鹿島神宮のご祭神である武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)であり、天鳥船神(あめのとりふね)を副えて遣わされたとされています。経津主大神の名は一切出てきません。

●一方、日本書紀では、主たる派遣者は経津主大神であり、武甕槌大神を副えて遣わしたとされています。

●これはおそらく、天皇家の私史である古事記には、当時の権力者である藤原不比等の意向が強く反映されたのではないかと思います。鹿島は鎌足の生誕地であるとする伝承もあり、不比等の没後ですが、藤原氏は、武甕槌大神(鹿島神)を、奈良の春日大社へ勧請しています。こうした事情に鑑みますと、古事記には、藤原氏に対する忖度があったように思われるのです。

●いずれにせよ、ヤマト王権が成立する時期に、関東には、ヤマト王権に従い、支える有力な勢力が存在したのは間違いないところでしょう。

●ところで、佐原の町から通じる街道沿いにある現在の表参道は、昭和初期に整備された比較的新しい参道です。江戸時代における参拝は、船で利根川を下り、神宮の真北にある津宮(つのみや)で上陸するというルートが一般的でした。津宮から香取神宮までは約2.3kmの道のりです。

●江戸から来るルートですが、松尾芭蕉の『鹿島紀行』(1687年)によると、芭蕉は、船で江戸川を遡って、行徳(千葉県市川市)で上陸し、陸路を布佐(ふさ)(千葉県我孫子市)まで歩き、布佐から船で利根川を下ったとされています。江戸の庶民も同じルートで参拝したのではないかと思われます。なお、香取神宮もこのルートで参拝できますが、芭蕉は、『鹿島紀行』では、香取神宮には立ち寄っていないようです。

●また、津宮の河岸(下写真)は、御祭神である経津主大神が海路、上陸した場所とも伝えられています。現在でも、12年に一度行われる神幸祭(じんこうさい)では、御神輿が津宮で御座船(ござぶね)に移され、利根川を巡る水上渡御(すいじょうとぎょ)が行われています。

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